宝満山にのぼって“啐啄同時(そったくどうじ)”について思ったこと

本年は気温が高くなるのが早く、酷暑日が続いています。
午後に夕立が降ったりするのが有難いくらいで(といってもゲリラ的なのは困りますが)、夜温も下がらず25度以上になると、結構良い歳にもなってきた身体には堪えます。

そんな7月下旬某日、熱中症アラートが継続する中、“宝満山”に山登りしました。
暑さもあって、行くかやめておくか、やはり迷ったのですが、このところ目的を持ったお休みを過ごしていなかったので「何かしなければ」と。昭和生まれのせわしない性分発揮です。

宝満山は太宰府市に鎮座する標高820m、竈門神社を擁する地元の皆さんに愛されるお山。
当社の新任部長は着任早々、他の女性スタッフも挑戦し「楽しかった」「2時間はかからなかった」なんて話も聞いていましたので、下腹の突き出たメタボリック正規軍の私でも何とかなるだろうと。
とはいえ思い立ったのが午後になったので、少々チートして三合目からのスタート。

登山道は一定に石段で整備されていて、木陰で風もあり思ったより涼しく、最初はそれこそ快適だったのですが・・・正直、舐めていました。この石段が思ったよりも相当にキツイ。
五合目に至る前に完全に失速し、寄りかかるストックを持ってこなかったことを激しく後悔したのでした。


また、たいした経験もなしにTシャツの軽装の上に持ち合わせた水分はポケットに突っ込んだ飲みかけのペットボトルの水のみと、最低限の準備もなく、もはや無謀、アホの所業です。首に巻いたタオルはあっという間に汗が絞れるくらいになりました。

そんなこんなでヨレヨレになりながらも、登山道の傍らに咲いているオレンジ鮮やかな鬼百合の花や垣間見える山下の景色に励まされたりしつつ、歩いているのか突っ立っているのか解らないくらいのペースで進んでいると、後ろから来るんですよ、私よりも遥か人生の先輩と思しき方々。健脚で私を追い越してスイスイ、ぴょんぴょん登って行かれます。

入山者は少なめだったとは思うのですが、そこは人気の山、登る人降りる人がそこそこにいらっしゃって、おそらく私が相当に汗まみれで、“やられた”姿だったのでしょう、皆さんすれ違いざまに定番の「こんにちは~」と戴くのはもとより「大丈夫?」「無理せずにゆっくりねぇ」とか声かけてくれるんですよね。
少し座り込んで休んでいるときには「私、200回登った」といった強者や「ここは低いけど堪える山だ」とか、いろいろお話も貰いました。
有難いなぁとは思いつつ、余裕のない私は「ハイ」とか「アリガトゴザイマス」「スゴイすね」とか、カピカピの喉から絞り出すのがやっとでしたが、行き会った皆さんすみません普段はもう少し愛想はいい方なんです。

何度も諦めて降りようか逡巡したのですが、もともと諦めの悪い性分もあってゆっくり登り続け、ようやく八合目に差し掛かったあたり、とうとう、ちびちびと飲んでいたペットボトルの水が切れ「このペースじゃまだまだか?」なんて気持ちがもたげて、いよいよ本気で戻ろうかなぁと思ったところでした

「この先岩場っぽくなって一番キツイけど超えたらもうすぐだから」と、先程追い越して行かれた方が早くも下ってきて声をかけてくれたのでした。
また、その先でも道が分かれるところ「うわ、どっちだ?分からん」と、また“へこたれるポイント”がひとつやってきたのですが

「左が登りやすく見えるけど、右のが近いよ、もうちょっと!」なんてやけに具体的に教えてくださった方がいて俄然やる気が出てラストスパート、おかげさまでこの眺望を楽しむことができたのでした。

頂上で一息つきながら思ったのですが、後半にもらった二つのアドバイスは、道中貰ったお声がけの中では私にとっては段違いに、登り続けるモチベーションにとても効いたのです。これは何故だろう?と考えてみたところ、やはり自分が求める内容と、また丁度良いタイミングにうまくはまった助言を貰えたからかなと、思い至ったのでした。

大田花きで部署の管理を担う立場にあった時、上席から“啐啄同時(そったくどうじ)”という言葉を学びました、恥ずかしながら当時は全く聞いたことがなかったのですが。この言葉の意図することを思い出していました。

曰く“啐”は鳥の雛が孵るときに殻の中で音を立てること。続く“啄”とは親鳥が外から殻をつつく事、孵るのを助けることを言うそうです。雛が頑張るだけではいずれ弱るし、親鳥が焦ってつつき割っても同じ結果。どちらが先ではなくタイミングよく“同時”になされることが卵をうまく孵す要点になる。転じて、教える側、教わる側とも、うまく導き、導かれるには呼応のタイミングが大切だということを表すことばと解釈しています。

人材教育、部下育成といった流れに話を広げたいのではなくて、自分が伝えたいことが相手の“心に響くか?”といった一点で、シンプルに他者を応援し、助言するといった状況でも、相手が求める内容を、タイミングを見て伝えていくことがとても大切なことだと身をもって実感できた機会になりました。

自分では良い事を言ったつもりでも相手と機を見ずでは、独りよがりの頓珍漢な内容を押し付けるのと同じことです。こんなことが最近忘れがちであったかもしれないと。寄りすぎず、阿り過ぎずで相手の状態をみて、行き詰まったなら支えるべくひとことを伝える。

また、教えを乞う“助けられる”立場とすれば、先ず自助、何とか自身で殻を破ろう、事態を乗り切ろうとする意志の発露が大前提になるのでしょう。
はなから「助けてほしい」と無為に触れ回るのは、明らかに自助ではなく、助言する側からすると別の形で手を差し伸べてしまう、山登りで言えば、もうすべて諦めて救助要請を発信するようなものです。

私が登りきるための良い助言を得られたのも、何とか頑張って自力で登る、という意思を拙劣ながらも行動で見せていたからこそ貰えた言葉だったように思うのです。

今回登山、身体的には大変でしたが、気持ちのリフレッシュと、最近足踏みをしていた課題解決のヒントを得られました。

宝満山、賢明な皆様には、涼しくなってからのチャレンジがおすすめです。
私も次回はもっとしっかり準備して、余裕をもって周囲を楽しみながら登りたいと思います。

代表 秋月